「最後の手段として」  03−11−30
                マタイ21:33〜40

 クリスマスを迎える私たちは、この出来事が「驚くべき出来事である」ことを忘れることは
出来ません。クリスマスの場面に登場する人たちは、みんな驚いていました。
「どうしてそんなことがありえましょうか」と言った母マリアの言葉は、クリスマスを知った者たちが、
共通して口にせざるを得ない言葉です。

 クリスマスに驚くのは、それが神の御子の誕生であるからです。
<キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって
自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。>(フィリピ2:6〜7)と
書かれています。神の御子が、もともとあるべきふさわしい場所から、そうではない場所に
飛び込んでこられたのです。ちょっと、人のふりをして人の世界を見学に来られたというのでは
ありません。人をしっかり捕まえ、抱え込むようにして救いへと引っ張り入れるために、
神の御子は人としてお生まれなさいました。神が罪多き人を救うために、あえてそのような行動を
とられたのです。これは普通のことではありません。クリスマスは、激しい出来事です。
 神が人と同じところにおいでくださるなどとは、思いもよらないことです。
<目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を
愛する者たちに準備された。>(Tコリント2:9)

 主イエスは、ぶどう園の主人の例えを通して、クリスマスの出来事を示されます。
 農夫は主人との関係を忘れ、背
(そむ)きの中で生きていますが、主人は目を覚まさせる
ためにと息子を送るのです。神との関係を失ってしまい、的外れなところで生きている人間の
ところに、神は最後の手段として、御子をお送りになります。それまでにも手を尽くしていたの
ですから、なお背く者を力でねじ伏せても良かったはずです。
 しかし、「それでもなお救いたい」との思いが勝っていました。
 「それでもなお…」この神の愛が、御子を人の世に送り、クリスマスを起こすのです。